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​ principles 

​私たちが伝えられること

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意拳では「作用反作用の法則」「力学的平均状態」を「争力」という名称の技術で重要視しています。

その理由は構造強化と動力に関係しています。加えて、意図や意思を単一機械(単純機械)に載せて目的を与え、

力を増やしたり、向かう方向を変える機巧を使います。

これらを複数の機巧を複合させます。これが意拳の基本です。

そして、これらは目視で判断することができず、一般には語られておりません。

 

 

解説できる存在も少ないことも理由の一つですが、「原理原則」を知らないまま教授しているなど不明確な指導が多々あり、

そこで学ぶ方々も表面的なもので満足して、それで良いと思っている風潮があることから、本質を知る者は、お伝えする

人物を選びたいと思うからです。原理を正しく学べばどなたもそのように感じるものと思っております。

 

私たちが目指すものは、外形の真似ではなく、根拠をもって実用活用することです。その内容は合理性、実用性、応用力の

幅が広く、また深いのです。そこに目指すべき王薌斎の哲学があります。

この世界に自身を浸し、驚くほどの工夫が編み込まれていることを感じていただくことです。

個人の充実を超えるばかりか、歴史、叡智、経験に敬意を感じる出会いです。

 

武術として確かな実力の定着と流派に対するリスペクトを感じながら、素にして本質的なものを実感するでしょう。

そして、無心に行える境地はすぐにやってきます。

もちろん、経験を重ねてひとつずつ正確に理解と体感していく地道な練習が必要なのですが、私たちはその原理原則を

わかりやすく説き、新たな意拳研究者たちを“確かに育てる”ことに挑戦しております。

 

意拳を学ぶこと 教えること 得られること

意拳は習う側も教える側も大変難しいものです。

先ず習う側に起こりやすい問題は、個人の思い込みが強く、習ったものを素直にやってみる探究心が欠けていることや、

この延長で、疑問をもたず常に受動的で浅い理解と取り組み方になること、また「目的」と「手段」を間違うことなどがあります。

 

教える側には指導者自身が外形の真似だけしていたり、最悪はそれを勧めていたり、「なぜそうやるのか」「なぜそうするのか」

という説明をせず、「全て時間と量とトライアンドエラーで修正し、経験を積んでいくものである」という放置があります。

自ら探究し、悟れるものと、そうできないものが世の中にはあります。

この意拳は細かな指導と吸収が必須なのです。

 

 

現在、意拳を練習されている方、站樁を教えている方に聞きたい。

なぜ站樁はその様な形状で行うのか? 末端から末端まで説明できるでしょうか。そして実際に理論どおりに実証することは

できるでしょうか。

全てをすぐに実感し体得することは難しいのですが、段階的に実体験と成功体験をしていく中で、王薌斎先生の仰ることが

どれほど重要であったのか理解できるでしょう。

そして知れば知るほど外見では理解できないこと、機巧が複合されているため、一言で表現出来ないこと、写真、動画で

伝えることがどんなに空虚なことか理解出来るでしょう。

 

王薌斎先生も著書「意拳正軌」の冒頭で形の真似事と本質を捉えていない人達に嘆いており、

姚宗勲先生は「形を真似るのではなく力を真似よ」という助言を書いており、その原理と動力を指している鮮やかな言葉ですが、

理解が未だ浅い状況が見られます。

 

意拳は冒頭で述べた争力をはじめとする構造の通り、骨靭帯の合理、重力の増減活用、張力と収縮から得る力の活用など体内、

脳内に起こる変化が本質で、車でいうエンジンを作り変えるものです。

我々学ぶ側が先ず焦点を合わせるべきは原理原則の「なぜ」ではないでしょうか。

その「なぜ」を解くものがここにあります。

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