強化装備を纏う
1920年代、古伝を活かしたまま整理し、要素だけにした高い科学性と実用性を証明した武術。一見静止した「站樁」を基として静から動、また動より静に回帰して高質を目指す。
原理原則の塊であり、抱球形式で立つ禅の発祥、あらゆる武術の上達のキーとなるエッセンスだけにした意拳。これを深く研究して継承を目指すのならば、喜んでその道を案内したい。
もし、これから墨林窯東京の意拳を学習することになったら、あなたが辿る道はこのようになります。
意拳の原理と原則を学んで曖昧さと誤解を解き、身体の使い方を身につけ、身体(体勢)に芯と漲りを軽々に維持し、静止でも動を保つ姿となるでしょう。それは
理解できた時の姿
もし、これから墨林窯東京の意拳を学習することになったら、あなたが辿る道はこのようになります。
意拳の原理と原則を学んで曖昧さと誤解を解き、身体の使い方を身につけ、身体(体勢)に芯と漲りを軽々に維持し、静止でも動を保つ姿となるでしょう。
それは機巧を備えた骨格と意思力が遂行力を高め、収縮と膨張の拮抗した漲る姿が站樁に現れるということです。
よって静の中に動があるという外見と内側の二重構造があなたの站樁の姿となります。
そして戦術と意は体の根幹から先端に至るまで硬軟、軽重、移動する変化を生むでしょう。
同時に攻防等の目的によって、どのような意思・意図を込めるのか戦術も含めて習得していくことでしょう。
そして、これらの習熟を目指していくための協力的で友好的な人的環境がありますので、あなたの進歩を遮るものは継続力の問題だけとなるでしょう。
少しずつ意拳の基礎構造(争力、渾圓、摸勁、假借)を理解し、身体で証明できるようになり、対人練習においても基礎が出来ていない人との実力差に驚かれ、その差は自信に変わるでしょう。
〈原理原則と用語の簡易説明〉
原理とは
立つことから骨格、関節に働かせる物理により合理的に力を増強させる優位技術のこと。
原則とは
身体を有利に使う条件を明示したもの。原理を効率的かつ有効に働かせ、ミスを少なくするもの。
ゆっくり動く練習の意味につきましては、原理原則と強い意思・意図が協働し、確かに動作しているか感じ取り、再現力を引き上げるために欠かせないものです。
争力、渾圓、摸勁、假借 簡略解説
争力は骨格に物理作用を用いて身体に張力を生むこと。渾圓は複数の争力が多方向同時張力で膨張状態のこと。
摸勁とは站樁と試力(具体的な動き)の間にあるもので、静と動の狭間に位置するもの。意拳ならではの哲学であり技術。これを理解しているか、活用できるかで真偽を見分けられるほど重要なもの。
假借は空間を物あるかの様に全身に圧縮と膨張と移動を生むもの。
機巧は渾圓力を基に骨格が持つ利点を指し、効率的に使うもの。
これらはまるで見えない“強化装備“を纏った姿のよう。
墨林窯 東京 代表より
意拳の構造の科学は既にあるもので私たちの足元にあるものばかりです。
それは合理的で緻密に活用されております。よく考え、試して基本に省みる過程を通じて、外見は同じでも質が格段に上がっていくのですが、その過程が全く形式だけになっている人がおります。
先述の争力、渾圓、摸勁、假借は絶対的な基本ですから、理解し活用できることは必須であるとお考えいただくと、そのレベルは測れるでしょう。
もし理を知らなければ、遠くから求め、異質なものを取り入れ、簡潔化とは逆方向に傾き、外見の物真似に終始したり、武術の目的とはかけ離れた非科学的なものになります。
このようなことを王薌斎は「意拳正軌」という文書の冒頭で嘆いておられます。
残念ながら、時代を経ても国が違っても、そのようなものはなくならないようです。
創始者である王薌斎、その弟子姚宗勲両先生、澤井健一先生、その他2代人の先生方、私の師である姚承光先生、姚承栄先生、崔㟨彬氏3代人が伝えているものと、かけ離れているものが中国、日本でも多々見かけられる現状において、墨林窯東京が正確な伝承と育成をもって一線を画すことだと思っております。
尚、他分野の理論を持ち込んだツギ当てのような指導や創作はいたしておりません。
そして⚪︎派意拳や⚪︎氏意拳などの名称の違いについては指導者の工夫の違いや方針が込められている呼称であると認識しておりますが、その自尊感情は王薌斎のいう「飄飄然有超塵出俗之姿」とも異なり、志す方々にも誤解させやすいものであるという私見を持っております。このように分別するのは武術の本質でもありますが、まるで整った庭園に場違いなものを置くようなもので站樁・禅がもつ無駄、誇張のない姿や孤絶とは反するものと考え、当会では王薌齋が命名した意拳という名称で継いでおります。